ナラティブ・バイアスと戦争

戦争は“語り”から始まる

戦争は、銃声から始まるのではない。
それは、語りから始まる。

「我々は守っている」
「彼らが攻撃してきた」
「これは正義の戦いだ」──

こうした語りが繰り返されることで、人々は現実を“物語”として受け取るようになる。
このとき働いているのが、ナラティブ・バイアス(Narrative Bias)である。
人は複雑な現実をそのまま理解するのが難しいため、物語として整理しようとする。
そして、その物語の中に、自分自身や自国を“主人公”として位置づけることで、安心感と一貫性を得る。
だが、その結果、現実を歪めてしまう。

語りの発動源が違えば、思考のかたちも変わる

ナラティブ・バイアスは、どこから発動されるかによって、国民の思考のかたちを変える。
語りの設計が「国家全体によるもの」か「指導者個人によるもの」か──その違いが、物語の構造と心理的効果を大きく左右する。

たとえば、1941年12月8日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃を受けてこう語った:
“Yesterday, December 7th, 1941—a date which will live in infamy—the United States of America was suddenly and deliberately attacked…(昨日、1941年12月7日──不名誉として歴史に刻まれるであろう日──アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍および空軍によって、突然かつ意図的に攻撃された…)”

この語りは、「国家の安全と価値を守るために、国民が一致団結して立ち上がるべきだ」というメッセージを含んでいる。
焦点は「自由」「正義」「平和の回復」にあり、国民の内発的な共感と責任感を刺激する。
語りの設計は議会・メディア・市民社会などに分散しており、複数の物語が並存し、批判や再解釈も可能だった。
この構造では、ナラティブ・バイアスは“自発的な共感”を生む装置として働く。

一方、2022年2月24日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナへの軍事行動をこう語った:
“The purpose of this operation is to protect people who have been subjected to abuse and genocide… to demilitarize and denazify Ukraine.(この作戦の目的は、過去8年間にわたりキエフ政権によって虐待とジェノサイドを受けてきた人々を保護することにある。そのために、ウクライナの非軍事化と非ナチ化を目指す。)”

この語りは、戦争を「防衛」として正当化し、国民の忠誠と動員を促す。
語りの設計は指導者個人に集中しており、異なる語りは排除され、物語は一元化される。
この構造では、ナラティブ・バイアスは“統制と動員”のための心理装置として働く。

同じ戦争でも、語りが違えば見え方も違う

この違いは、現在の戦争の認識にも深く影響している。

ある側では、
「祖国を守る英雄」
「外部の脅威に立ち向かう」
という物語が繰り返される。

別の側では、
「自由と秩序を守るための支援」
「専制への抵抗」
という語りが強化される。

同じ戦争を見ていても、語りの構造が違えば、見え方も違う
ナラティブ・バイアスは、事実よりも語りを信じさせる。
映像や証言があっても、「それは敵のプロパガンダだ」と切り捨てる。
逆に、自分の物語に合致する情報だけを信じるようになる。

この状態では、対話は成立しない。
なぜなら、相手の語る現実が“物語の外”にあるからだ。

語りを翻訳する者だけが、関係を設計できる

戦争を止めるには、武器だけでなく、物語の翻訳者が必要だ。
ここで言う「翻訳」とは、言語の変換ではない。
相手がなぜその語りを信じているのか、その背景や構造を理解しようとする姿勢のことだ。

たとえば、ある国の人が「自由こそ最高の価値だ」と語るとき、
それは「自由がなければ、個人の尊厳が守れない」という歴史的経験に根ざしているかもしれない。

一方で、別の国の人が「秩序こそ安定の源だ」と語るとき、
それは「混乱が続けば、社会が崩壊する」という記憶に支えられているかもしれない。

つまり、

  • 「自由」は、ある人にとっては希望だが、別の人にとっては混乱の入り口に見える。
  • 「強さ」は、ある人にとっては支配だが、別の人にとっては安心のための設計かもしれない。
  • 「支配」は、ある人にとっては恐怖だが、別の人にとっては秩序の中心性かもしれない。

こうした違いを理解せずに、「それは間違っている」「こっちが正しい」と語れば、関係はすぐに壊れる。
だが、**なぜその語りが生まれたのか?**を問うことで、相手の世界の構造が見えてくる。

そして、自分の語りもまた、教育・歴史・報道・文化といった構造の中で育まれたものであることに気づく。
そのとき初めて、“壊れない関係性”を設計する言葉が生まれる。

語りを翻訳するとは、相手の正しさを受け入れることではない。
それは、相手の語りがどんな構造に支えられているかを理解し、自分の語りとの接点を探すことだ。

あなたの語りは、誰が設計したものか?

だからこそ、私たちは問わなければならない。

「自分の語りは、誰が設計したものか?」
「その語りの中で、私は何を信じ、何を見落としているのか?」
そして、
「違う語りを持つ相手と、どうすれば壊れずに関われるのか?」

この問いは、抽象的な哲学ではない。
それは、今まさに続いているウクライナ戦争という現実に、深く関わっている。

この戦争は、領土の争いであると同時に、語りの衝突でもある。
「防衛か侵略か」
「自由か秩序か」
「正義か欺瞞か」──

それぞれの語りが、国民の認知を形づくり、行動を正当化している。
そしてその語りの発動源がどこにあるかによって、見える現実も、許される感情も、まったく異なる。

だからこそ、私たちは語りを翻訳しなければならない。
自分の語りを問い直し、相手の語りの構造を読み解く。
そのとき初めて、戦争の外側に立つ言葉が生まれる。

そしてその言葉こそが、壊れない関係性の設計図になる。